0:49小言幸兵衛 27:21搗屋幸兵衛 52:55尻餅 1:17:22強情灸
「小言幸兵衛」
家主の幸兵衛はのべつまくなしに長屋を回って小言を言っているので「小言幸兵衛」と呼ばれている。部屋を借りたいと訪れた豆腐屋や仕立屋は低姿勢で人柄も良さそうだが、幸兵衛があれこれ文句を言うので二人とも腹を立てて帰ってしまう。原話は正徳2年(1712年)に出版された笑話本・「新話笑眉」の一遍『こまったあいさつ』。元々は、『借家借り』という上方落語の演目。本来は豆腐屋の前に、搗米(つきごめ)屋が長屋を借りにきて説教される件が入っていたが現在ではこの前半は別話として切り離して演じられる。別題『搗屋(つきや)幸兵衛』幸兵衛の猜疑心はもはや常軌を逸していたが、家主は万一の場合、店子との連帯責任を負うことが決まりなので店子の選択に注意を払うのは当然のことであった。
「搗屋幸兵衛」
家主の幸兵衛が、今朝も長屋を一回りして、小言を言って家に戻ると、空家を借りたいと男が訪ねて来た。仕事は搗米屋だというので以前あの部屋には搗米屋がいて、その隣に自分が暮らしていたと思い出話を始めた。最初に結婚した嫁は働き過ぎて体を壊した。死に際に妹を後添いにと頼まれて妹と再婚したが死んだ姉が私を恨んでいると言い出した。姉の位牌が朝になると後ろを向いているのだ、妹はこれを気に病んで死んでしまった。死後、朝になると二人の位牌が揃って後ろを向いている。さては狸の仕業かと寝ずの番をしたが・・・「小言幸兵衛」の一部を独立させた噺で豆腐屋さんが来て、次に現れる借り手が、この搗米屋さんです。その次に仕立屋さんが来て息子を心中させる話になりますが3人も応対すると1時間以上の長い落語になってしまうので二つの噺に分けたようです。
「尻餅」
大晦日が近づき、近所では餅をついているのに、亭主が甲斐性なしで餅屋も頼めない貧乏世帯。見栄っ張りな女房は近所の手前、せめて餅つきの音だけでもさせてほしいと文句たらたらだ。亭主はうるさい女房を黙らせる妙(迷)案を考えた!景気よく餅屋を呼び込んで餅をつかせる芝居をしようというのだが・・・
「強情灸」
十人十色、人それぞれ顔形が違うように気性も違う。気の短い人、長い人、無精な人、強情な人など様々だ。長屋の源さんは陽気の代り目で腰が痛く温めた方がいいというので近くのフロ屋の薬湯に入ったが長く入り過ぎてのぼせて倒れて水をかけられ逆に冷やされてしまった。伊勢六の隠居が腰痛には灸が効くと言うので据えてもらったがその熱いこと。後は自分で据えろ上へ上へと据えるんだと言われ・・・
三代目 古今亭 志ん朝
七代目立川談志、五代目三遊亭圓楽、五代目春風亭柳朝と共に、若手真打の頃から東京における『落語若手四天王』と呼ばれた。他にも同世代噺家の中では『東の志ん朝、西の枝雀』と称される。
「古今亭志ん朝」を名乗った他の2人は、いずれも名乗った期間が極めて短い。そのため「古今亭志ん朝」と記した場合、真打昇進から没するまで40年以上にわたって「志ん朝」を名乗り続けた三代目を指すことがほとんどである
桂歌丸
今輔門下から兄弟子4代目桂米丸門下へ移籍したのは芸術協会で勃発した香盤問題や今輔が新作派なのに対し高座で古典落語ばかり演じていたことに端を発して破門状態となり一時落語からはなれていたが三遊亭扇馬(のちの3代目橘ノ圓)の肝いりで米丸門下として落語界に復帰した。「笑点」の初期メンバーで小圓遊との掛け合いはものすごく受けたが「あたしは落語を怠けている」と痛感し落語をちゃんとやることにしたという。歌舞伎は仕草や立振舞などを見て落語に活きるからと、中村吉右衛門出演の歌舞伎をよく観に行っていた。「歌丸」の名は師匠の四代目桂米丸が考案した名で歌丸は当代が初代である。
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