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【腎臓がんも乗り越えたが・・・】数々のケガ、そして腎臓がんさえも乗り越えてきた「鉄人」小橋建太に引退を決意させた医師の衝撃的な一言とは? #プロレス #猪木  #長州力 #三沢光晴

オレたちのプロレスと格闘技の考察 16,122 lượt xem 8 months ago
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2006年。小橋の身体に異変が起こった。
きっかけは年明け早々にひいた風邪がいつまで経っても治らないことだった。それでも数ヶ月は試合を続けていたが、6月4日に本田多聞と組んで2度目のGHCタッグ王者になったばかりの小橋が6月末に定期健診に行くと、看護師がざわめき始めた。医者からは「別の病院で精密検査を」と言われた。検査の結果、腎臓ガンであることが判明した。

小橋は自分でガンについて勉強し、数々のセカンドオピニオンも受けた。手術後、「体を動かしたい」と切望し、担当の中井川昇医師に「水中歩行ならいいでしょう」と言われれば、毎日2時間行なった。筋肉を戻すために製薬会社に自ら電話をかけ、腎臓に負担をかけないアミノ酸サプリメントはないか聞いた。小橋は、復帰し、プロレスをする気満々だったのである。

中井川医師は当初は怒っていた。「私はあなたにプロレスをさせるために手術するんじゃありません!あなたに生きていてほしいから手術をするんです!」

だが、小橋のリングへの熱意は緩まない。手術から半年後、中井川医師も遂に根負けした。
「無理をしない程度に、復帰に向けてやって行きましょう」

右腎臓摘出手術から1年半後の2007年12月、小橋はリングに復帰する。546日ぶりの奇跡の場に、中井川医師を呼んだ。リングで躍動する小橋を見届けた彼は、翌日、小橋にこんな風に言ったという。「あなたには、リングに上がることが、生きるということだったんですね」

だが、小橋の異変はまだ続く。2008年9月9日、小橋は、右ヒジ尺骨神経麻痺の手術を受けた。右手の神経が死んでいたのだ。原因は、チョップの打ち過ぎだった。

医者は言った。「1発のチョップなら良いですが、あの、いつもやる、連打するのはやめて下さい」。コーナーに詰めてのマシンガンチョップのことである。しかし小橋は即答した。「それは、聞けませんね」。

「地方に行けば期待して待ってくれている人もいるし、その気持ちは、自分自身がめったにプロレスが来ない田舎の出身だからよくわかる。何年かに一度しか行けないような所でやらなかったら、『みんな楽しみにしてくれていたのに』と、きっと後悔する。マシンガンチョップをやって体に残るダメージより、やらないで自分の心に残るダメージのほうがよっぽど大きい」

2009年3月に、約半年ぶりに復帰するも、2010年1月には再び手術を受けた。病名は、右肘部管症候群。右手の酷使が原因だった。小橋は、その言葉通り、マシンガンチョップをやめることはなかったのだ。そして1年半に及ぶ欠場となったが、この間に、96年夏から長きにわたってつきあい続けていた、演歌歌手の、みずき舞こと真由子夫人と結婚している。

2011年7月に復帰し、8月の日本武道館での『ALL TOGETHER』に出場。東日本大震災の被災者の気持ちを鼓舞するために、自らの代名詞であるムーンサルトプレスを敢行しようと決めた小橋は、試合当日の朝、道場に行った。もちろんムーンサルトを練習するためである。1回目は頭から落ち、2回目は飛び上がれず、背中から落下。3回目にようやく成功し、そのまま会場入りした。

武藤と組んで飯塚高史&矢野通と対戦した小橋は、14分58秒、自らのムーンサルトで飯塚をフォールして勝利を収めた。

大成功となった『ALL TOGETHER』は翌2012年2月、仙台サンプラザホールで第2弾興行を開催。再び武藤と組んで大森隆男&秋山準と対戦したが、今度は武藤がムーンサルトで秋山をフォール。

チームとしては勝利したが、小橋には最後の苦難が待っていた。この試合で小橋もムーンサルトを放ったのだが、彼は落下した後、立てなくなってしまった。左足脛骨亀裂骨折、右膝靭帯損傷で、帰京すると、即入院となったのである。

12月9日、NOAHの両国国技館大会において、小橋は久々に公の場に姿を現した。そして、彼は言った。

「あと一試合やって、引退します」

今までひざやひじや腰、そして腎臓がんさえも乗り越えてきた小橋がついに引退を宣言した。どこを故障してもそのたび立ち上がってきた彼に引退を決意させたのは、今回の入院初日に言われた医師の言葉だった。

#プロレス #猪木  #長州力 #三沢光晴

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